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そろそろ脱藩まで

2010.09.29 *Wed
1回目の江戸修行後~脱藩するまでに出会った人々と龍馬の話。


1854年(安政元年)

江戸から土佐へ戻った龍馬は河田小龍を訪れる。
このとき、龍馬20歳。

河田小龍は土佐藩用達の絵師で、
ジョン万次郎から海外事情を聴取し
『漂巽記略』を記した人。

購入した船で同士と商用を行う傍ら、
航海の演習をすることが重要
と説いた小龍に、龍馬は
「君は内にいて人を作り、僕は外にありて船を得るべし」
と告げたとされている。

ちなみに、後の亀山社中・海援隊に参加した
近藤長次郎、新宮馬之助、長岡謙吉は河田の門下。


1855年(安政2年)
徳弘孝蔵の砲術稽古に参加。龍馬21歳。

徳弘孝蔵は土佐藩における砲術第一人者。
仁井田浜に開いた道場の入門者には
武市半平太、岡田以蔵、龍馬の兄・権平もいる。


1856年(安政3年)
龍馬は2度目の江戸修行に出る。22歳。
この2度目の遊学で、龍馬は武市半平太と交友を深めた。

武市半平太は、当時鏡心明知流士学館の師範代。
龍馬とは親戚同士で、後に土佐勤王党を立ち上げる。


1858年(安政5年)
龍馬は『北辰一刀流長刀兵法目録』を授かる。
その後、2度目の江戸修行を終え土佐へ戻る。

11月、江戸で知り合った住谷寅之助大胡聿蔵
龍馬を頼って藩境にやってくる。
が、満足に答えられなかったため
「事情迂闊。何も知らずとぞ」と評価される。

当時の龍馬は、老中の名前さえ知らなかった。


1861年(文久元年)
武市半平太が江戸で「土佐勤王党」を結成。
龍馬は7番目、土佐では最初に加盟した。


1862年(文久2年)
龍馬は、武市の書状を届けるため
長州の久坂玄瑞を訪ねる。

久坂は返書に
「失敬ながら、尊藩も弊藩も滅亡しても、
大義なれば苦しからず」
と書いている。

この言葉に影響されてか、
1ヵ月後、龍馬は突如脱藩する。

久坂玄瑞は吉田松陰の門下で、
尊皇攘夷派の旗頭となり藩論を尊皇攘夷に転換させたが
禁門の変で自刃。妻は吉田松陰の妹。




やっと脱藩まで来た~・・・
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「坂本龍馬」の名前しか知らなかった女子が
『坂本龍馬検定』上級合格を目指す奮闘記



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